『ハムレット』と『羽生蓮太郎』、「復讐悲劇」と「人情喜劇」―ハブレンの感想

ハブレンの感想! 円盤をどうにか買えた時に書いた文章です! 去年の一月とかかな。

配信があるとのことでひっぱりだしてきた。たいして長くないんだけど、まだ演目ひとつひとつに感想を書いてなかったころでその年の観劇まとめみたいな記事もなく、格納する場所がなかったやつ。

 

めっちゃ面白くて、現地でみれなかったのがとても残念で仕方ない。ブロマガにあがってた戯曲は読んだことあったけれど演出がついて板の上に乗ってこそだよ舞台はなんて当たり前のことを考えました。

ベースは「ハムレットの翻案」なんだけど「浪速版ハムレット」そのものだと思って挑むとちょこちょこ混乱するところがあるなあと思った。死んでるはずの人間が死んでなかったり。ポローニアスのところです。ポローニアス(宮春)、原作だと死んでるので出てきたときに「そういや生き延びたんだった」ってなった。

結末の大きな違いも原作と全然違って驚いたポイントのひとつ。私たちにとってより身近な物語に据え置かれて終わるなという印象を受けた。死ぬはずの人が生き残るので、そのぶん唯一死んでしまったオフィーリアこと親春の死が重たい。ハムレットだと人がバタバタ死んだ中で残ったフォーティンブラスが希望だけどもハブレンは一番死んだらきついひとだけ逝ってしまう。残された人たちはどれだけ大変でもどうにか日常を生きていくしかないのが、「遠い国、遠い昔の出来事」からより私たちの生活に近いところに物語が来る感じがしてズシっとくる。

ここについては蓮太郎がハムレットになりきらなかったところが大きいのかなと思いました。作中、蓮太郎を含めて一部のキャラクターたちは自分たちがハムレットの登場人物であることに自覚的。このメタ構造も面白い。『ハムレット』の中で旅役者が演じる劇中劇にあたる部分でストレートに『ハムレット』が演じられるところなんかは成程と思った。

このメタ構造について、「俺はハムレットなんかやない。あんなんと一緒にすんな」という台詞とかに現れるように蓮太郎は「自分がハムレットになってしまうのかどうか」という点で迷う。この迷いは(皮肉にも)原作の狂気と正気の間で葛藤するハムレットを思いださせた。原作のハムレットは「狂っているフリ」をしているうちに本当に狂気に取り憑かれてしまって、その狂気と正気の間で惑う。

ここのハムレットについて書かれた研究書で印象に残った箇所があったので引用します。

 

ここまで復讐のための劇を演じてきた主人公は、もう狂気を振り払うことなどできはしない。もう一人の彼自身が、異形の自分が、そこには現れている。(中略)自分自身でなくならねば、復讐は果たせませんでした。あるいはこのように「悪党」に変貌してでも、なんとか復讐することがこの主人公にはできました。(村上淑郎『To be とnot to beの間―ハムレットの仲間たち』東京:鳳書房、2011 29ページより)

 

 

 

このあたりが蓮太郎とハムレットの一番の違いなのかなとおもった。

ハムレットは最終的に自分が演じた狂気に完全に吞まれてしまったからこそ復讐を完遂できたんだろう。蓮太郎は完全に狂ってしまうことはできなかった。これが結末の違いにも繋がってるのかもしれない。最後まで復讐することもできなかったのは狂気に呑まれず、悪党になりきれなかったからなのかな、と。

復讐悲劇『ハムレット』のつもりでみていると、この結末には少々肩透かしを食らう。けれど、だからこそ、死ななくてもよい人が死んでしまうという物語の悲劇性が浮かび上がってくる。狂いきれなかった蓮太郎の人生は、どれだけ悲壮なことがあろうとまだ続いていく。この、どれだけ辛いことがあってもどうにか生きて行かないといけないって感覚は私にもすごく覚えがある。

シェイクスピアの書いたデンマーク王朝の悲劇」をこうして人情喜劇に纏められてしまうところが凄いなあと思う。私はシェイクスピア作品ってきくとなんとなく身構えてしまうというか背筋を正してみなくっちゃって思ってしまう部分があるのだけど、そのハードルのようなものを簡単に取り払えてしまうところというか……『ハムレット』の骨格は残しつつ、より観客が没入しやすく、物語と観客の距離をぐっと縮められているところというか……。ほんとうに凄い。し、私はこの『ハムレット』があたたかくて好き。

 

つまりとみゆり楽しみだねって話!!!! もしかしたらティボルトも生き残るかもしれない(ティボ推しの人)。早くみたいです!! 楽しみ!!!