聖書にみる兄としてのラファエロとアンジェリコ

 

 

  • はじめに

 演劇作品TRUMPシリーズに登場する、ラファエロとアンジェリコの兄としての部分を取り出して、聖書の物語と比較しつつ二人の内情について書いた自由研究です。作品の感想ではなくて、解釈や分析なんて御大層なものでもない。だから自由研究。私は神学の専門家でもなんでもないしアカデミックな文をたくさん書いてきたわけでもないので至らないところが多数ある文章ですが、記録としてというか、語りたいオタクなので……。自分が長いあいだラファエロとアンジェリコに気をおかしくしてるから考えられるうちにちゃんと文章にしておきたかった。

 作品からの引用はすべて、公式から発売されている戯曲集によります。戯曲の引用後にはページ数、作品名、章を記しました。また一部映像資料としてDVDも使用しています。そちらの引用や場面説明の後は、カッコ内に時間・分・秒を記載してあります。そのほかの参考資料については一番下にリストを作成しました。

 以下シリーズ(『TRUMP』『グランギニョル』『COCOON』)のネタバレを大いに含みます。というか話を知っている前提で進みます。未観劇の方にはおすすめしません。

 

  • ウルと二人の兄

 みなさんもご存じの通り、『TRUMP』(2009) に登場するウルの兄はシリーズ一作目からラファエロがそうとして描かれてきましたが、『グランギニョル』(2017)でウルにはもう一人、異母兄がいることが判明します。実際に血縁関係のある兄はラファエロではなくアンジェリコの方でした。つまりウルには家庭の中の兄と血縁上の兄、二人の兄がいることになります。ここでは、この三人が作品の中でどう兄弟として描写されているか確認していきます。

 

COCOON 月の翳り・星ひとつ』(2019)ではいくつかの面でこの兄弟関係が強調されています。そのひとつがセリフのリフレインです。

「デリコデリコデリコ、俺は好きでデリコに生まれたわけじゃない」(デリコ 321,月の翳り第七章)

「なんだよデリコデリコデリコって! 僕は好きでデリコ家に生まれたわけじゃない!」(ソフィ 120,TRUMP第五章)

これはラファエロとウルのセリフ。続いてアンジェリコとウルにも同じように酷似したセリフが存在します。

「お前さえいなければ! ラファエロは僕を選んだはずだ!」(デリコ 357,月の翳り第十章)

「ソフィ、君さえいなければTRUMPは僕を選んでくれるはずなんだ……」(ソフィ 201,TRUMP第十章)

このように『COCON 月の翳り』の中で、ラファエロとアンジェリコはそれぞれ『TRUMP』のウルのセリフをなぞっているのがわかります。

 また、言動の面でも月の翳りのラファエロとアンジェリコはウルと似通っています。月の翳りでラファエロ、アンジェリコ、ディエゴの三者による関係は緊張状態に陥り、最終的には崩壊してしまいます。この関係はTRUMPでのソフィ、ウル、ラファエロの関係に置き換えることができます。友達という存在に固執するアンジェリコの姿は、TRUMPのウルの姿と重なります。また作中の時系列で考えれば、ラファエロは自分たちの関係が修正不可能なほど崩壊し互いに深く傷ついたため、同じ事にならないようソフィからウルを引き離そうとしているようにも思えます。

 こういった描写で、三人の兄弟関係を事実として知っている私たちは彼らが兄弟であるということをより強く印象付けられます。以上のことから、この関係が作品内の重要な要素であるとわかります。

 

  • 聖書の中の兄

 三人の兄弟関係について確認したうえで、さらにこの関係を聖書と関係付けながら読みといていきます。

 聖書の物語では、複数の形で兄弟間の葛藤が描かれています。ヨセフとその兄たちの葛藤(創世記37:3-30)などがそうです。特にカインとアベルの物語(創世記4:1-26)と放蕩息子の例(ルカ15:11-32)は有名です。この三つの話には共通している点があります。どの物語も弟が父、あるいは父なる神の寵愛を受け、兄がそれに不満を持っているという構造になっています。

 このことを踏まえ、三人をラファエロとウル、アンジェリコとウルという二組の兄弟に分解し、二人の兄に目を向けていきます。

 

 シリーズ内で描かれているラファエロの葛藤は、「放蕩息子のたとえ」とよばれるたとえ話を彷彿とさせます。その関係を明らかにするため、まずはラファエロの葛藤を明確にし、その後放蕩息子のたとえと比較していきます。

 放蕩息子のたとえについては下のリンクを参考にしてください。

ルカによる福音書15 : 聖書日本語 - 新約聖書

 

ラファエロが抱える葛藤は次のセリフに強く表れています。

「お父様……僕は、お父様のように立派な貴族になるから……だから、僕をちゃんと見てよ」(デリコ 315,月の翳り第七章)

「ウル、お前はそうやって家督というさだめを背負わずに、俺からお父様の愛だけを奪う。俺は……」(デリコ 321,月の翳り第七章)

ラファエロは父であるダリが弟ばかりをかわいがり、自分にはデリコ家の嫡男として相応しいふるまいを求めるため父の愛が公平に注がれていないと感じ、葛藤しています。ダリの態度が不公平であると感じているのはラファエロだけではありません。

「立派な貴族になれ! 立派な貴族になれ! 父さんはずっとそれを兄さんに言い続けてきた」(デリコ 472,星ひとつ 第八章)

弟のウルの目から見ても、ラファエロに対するダリの態度は厳しいものでした。

放蕩息子の兄もまた、父から自分に与えられるものと弟に与えられるものの差について不満を抱えています。この父のへの不満の理由について、『現代聖書注解スタディ版 創世記』のなかで、C.B.シンクレアはこう述べています。

この放蕩息子の兄は不埒な弟に向けられた父親の配慮に不快感を示しますが、それは宴会を嫌ったからでも、弟を憎んだからでもありません。自分が配慮されなかったからです(シンクレア 48)

このように、ラファエロの葛藤は放蕩息子の兄の葛藤と類似していることがわかります。ラファエロの葛藤は弟のウルに対して向けられているわけではありません。父親に対して、父の自分に対する扱いに対して、葛藤しているのです。 

 ダリはなぜこのような態度をとるのでしょうか。ウルの出生や寿命のことを踏まえると、二人に対するダリの態度の差はこう解釈することができます。

ウルはダンピールのため早く死んでしまう。だから生きている間は精一杯愛してやろう。ラファエロはウルより長く生き、長く父とともにあることができる。それは幸せなことだから、今は耐えなさい。

これは、放蕩息子のたとえのなかで、弟との不公平な扱いについて指摘した兄に対する父の説教と似ている考えです。

「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは、全部お前のものだ」 (ルカ15:31)

 ここまでで、ダリとラファエロが放蕩息子のたとえの父子と似た境遇にあったことがわかります。そしてこのたとえ話は、『現代聖書注解 ルカによる福音書』でF.B.クラドックが指摘する通り、寛大さと正義の格闘を引き起こすのです。

読者は、じっと家にいて一所懸命働いていた息子に、父親がパーティーを開いてやることを予想して(望んで)いたのだが、最後で驚きを感じるのだ。(中略)寛大さが、正義を廃棄するかのように思われてしまうのである。そして、この譬えは、譬えというものの持つ拘束力によって、読者を、その――寛大さと正義との――緊張関係に引き込んで、それと格闘させるのである。(クラドック 309-310)

ここでいう「寛大さ」とはすなわち実子ではないウルを受け入れたダリの寛大さ、「正義」とはデリコ家に忠実であり続けたラファエロの正義です。しかしこれは、ダリがラファエロの誠実さを受け入れていなかったということではありません。

父親が、二人の子供をもっていただけでなく、二人を愛していたのであり、二人を出迎え(二十、二八節)、二人に対して寛容であった(十二、二二、三一節)(中略)弟を受け入れることは、兄を拒絶することではなかった。(クラドック 312)

父は二人に対して等しく寛大で、二人を等しく愛していました。もちろんダリもそうであったことは、『グランギニョル』、そして『COCOON 星ひとつ』をみた私たち観客であれば皆知っています。しかし兄たちがそれに気が付くことはありません。ただし、この二人の兄の相違点として挙げられるのが、放蕩息子の兄は父に対し直接不満を述べ、そして父の愛に気付く機会を得ている点です(ルカ15:29,30)。この兄の発言に対し、父は初めて兄に配慮する言葉を投げかけます。父が兄に対しいつも一緒にいてくれることに感謝していることが明らかになるのはこの部分のみであり、これ以前、父が兄にこうした言葉を向けてこなかったことが想像できます。故に兄は自分が弟とおなじ権利を有していることに気が付けなかったのです。

 対してラファエロは、(少なくとも脚本の上では)この葛藤を自分の中に留めるのみです。*1放蕩息子の兄のように、父に対して直接感情を吐露していれば、あるいは父の真意を知ることができたかもしれません。しかし、ラファエロは父に対し不満を漏らすことすらできませんでした。ラファエロがこういった問を投げかけることができなかったのは、ダリの態度がたとえ話の父よりよほど固い物であったからにほかなりません。ダリの厳しさ故にラファエロは実の父に対して壁が生まれ、父親に本音を話すことができなくなってしまったのです。

 つまりラファエロは、放蕩息子の兄になりきれなかった兄でした。放蕩息子のたとえと比較することで、ラファエロは父に心からの誠実であろうとしながら本音を明かせないという複雑な状態にあったことが浮き彫りになります。

 

 次にアンジェリコについてみていきましょう。アンジェリコとウルについて、『COCOON 星ひとつ』で新しい事実が明らかになりました。ウルの死因についてです。ウルの死因は背中の刺し傷によるものであることが明言されました。つまり、アンジェリコは本人は無自覚だったとはいえ、自分の唯一の血縁者を手にかけてしまったことになります。『TRUMP』のなかで、なぜアンジェリコがウルを刺したのか、その必要はあったのか、理由ははっきりと描かれません。『COCOON 月の翳り』及び『TRUMP』のアンジェリコの行動を「カインとアベルの物語」と比較し、アンジェリコの行動の背景に踏み込んでみましょう。

 カインとアベルの物語は、端的にまとめると選ばれなかった兄と選ばれた弟の話です。詳しくは、以下のリンクを参照ください。

創世記 4 : 聖書日本語 - 旧約聖書

この構図は、『COCOON 月の翳り』を彷彿とさせます。ここで一度述べておきたいのは、アンジェリコにとってこの時のラファエロの決断は、神の裁定に等しかったということです。前項の「放蕩息子のたとえ」で、父は神の比喩として語られました。ラファエロにとって父が自分の全てを決定づけるほど大きな存在であったことや、「父なる神」の概念を踏まえるとラファエロにとってのダリを神ととらえることは妥当な見方です。では、アンジェリコにとっての神はどうだったのでしょう? 以下の台詞がその答えのヒントになります。

「僕も、フラ家の名に恥じないような、立派な吸血種になる」(デリコ 216,月の翳り 第一章)

「僕にはフラの血が流れている! ここにいるダンピールより僕のイニシアチブの方が上だ!」(デリコ 345,月の翳り 第八章)

「僕は偉大なるゲルハルト・フラの子、フラ家の跡を継ぐものだ」(デリコ371,月の翳り 終章)

これらの台詞から、フラ家の跡取りであること、ゲルハルト・フラを父に持つことがアンジェリコアイデンティティの核であることがわかります。つまりアンジェリコラファエロと同様父が神に等しい存在でした。しかし『月の翳り』のなかで、それが揺らぎアンジェリコの中に別の芯が生まれている様子もみられます。

「もしかしたら、父さんは僕に何の期待もしていないのかもしれない。でもそれでも、僕は父さんの跡を継がなくちゃいけない(中略)だからこそ僕は、このクランで誰にも負けないと誓った。ラファエロ、君がそう思わせてくれたんだ」(デリコ 278,月の翳り 第五章)

成長する過程でアンジェリコはゲルハルトが自分を見ようとしないことに疑念を抱き、自分の中に「ラファエロ・デリコ」という理想の偶像を作り上げてしまったのでしょう。それがアンジェリコにとっての行動指針、神のような存在になってしまいました。ですから、『月の翳り』のなかでラファエロに選ばれなかったアンジェリコは、神に選ばれなかったカインと同様の存在となります。

 ラファエロがウルを選んだ直後のアンジェリコの行動にも、神に捧げものを受け入れられなかった直後のカインと共通するものが見られます。創世記にはこうあります。

「カインはひどく怒り、顔を伏せた」(創世記 4:6)

『月の翳り』の「ライネス」直後のアンジェリコも同様に顔を伏しています(DVD 1:56:42)。この時の「怒り」についてシンクレアは以下のように分析します。

旧約聖書の伝統的な知恵では、人間の感情は基本的に喜び、哀しみ、怒り、恐れの四つです。より深く考えてみると、哀しみは内面化して恐れに転じることが分かります。(中略)怒りは外側に噴出した恐れです。怒りっぽい人は恐れによって苛立ちや他者への侮辱、偏屈、また攻撃へと駆り立てられます。(シンクレア 41)

アンジェリコラファエロが自分を選ばないこと、そして親友だという認知が自分の独りよがりであるというのが露呈してしまうことを恐れていました。この時、アンジェリコにはまだ選択肢がありました。怒りを抑え、支配するという選択肢です。怒りで顔を伏せたカインに神はこう述べます。

「あなたは、それを治めるべきである」(創世記 4:7)

事実アンジェリコがここで怒りをコントロールできていたならラファエロとの友情に決定的な亀裂は入っていなかった可能性もあります。しかしアンジェリコのした選択は悲劇的です。アンジェリコの恐れが実現した時、それは怒りとして噴出して仮想のウルに向かいます。アンジェリコは直前までエミールをエミールとして認識していたにもかかわらず、エミールに殴りかかったのは、アンジェリコが怒りに支配されていたからにほかなりません。

「自分がウルのために生まれてきたんじゃないって言ってたよな。良かったじゃないか、これで煩わしいウルから解放される」(デリコ 362,月の翳り 第十章)

多くの要因があったにせよ、二人の決裂を取り返しのつかないものにしたのはアンジェリコの言葉でした。

 この怒りは三年の時をかけて更にアンジェリコを侵食していきます。

あなたの怒りは貪り食う野獣であり、妬みがあなたを食い尽くすだろう。あなたはそれを支配しなくてはならない。さもなければ、それはあなたの支配者になるだろう。(シューメイカー 30)

シューメイカーの指摘通り、アンジェリコは妬みに食い尽くされてしまいました。その怒りがウル本人に向かうのは、ウルがダンピールであることを知りそしてラファエロを喪った後です。怒りに支配されたアンジェリコは、『TRUMP』の終盤でとうとうウルにナイフを向けます。

 アンジェリコの罪は、自分の恐れと向かい合うことなく、怒りに身を委ねてしまったことにあるのでしょう。

 

  • おわりに

 ここまでお付き合いいただいた方、このような文を読んでいただいて本当にありがとうございます。

 私は初めて『TRUMP』を観た時からラファエロが放蕩息子の兄的であるというのを感じていました。『グランギニョル』で血縁関係が明らかになった後は、本来ウルの異母兄という責務を負うべきアンジェリコがウルを刺殺している点にカインとアベルの悲劇を思い出さずにはいられませんでした。ですから、『月の翳り』のラファエロにウルかアンジェリコを選ばせるシーンというのは非常に衝撃的でした。もちろん、それ以外の意味でもとても衝撃を受けました。

 二人とも血縁の真実については知らないのにもかかわらず、二人の行動はどちらも「兄」の物語を彷彿とさせます。ラファエロとアンジェリコの不思議な兄としての行動についてはどうにか言語化したいとずっと思っておりましたので、コロナで暇になった今ようやっと拙いながら形にできました。ラファエロは兄として誠実であろうとし、アンジェリコは反対に無自覚で動いているにもかかわらず二人の行動が『TRUMP』の悲劇の引き金になっているのがなんとも皮肉です。この「兄」という部分からさらに二人の関係についてももっと深く考えたいのですがまだうまく言葉になりませんでした。今後できるようになればいいなと思います。

 COCOONが公開された以上もうこの二人に関してこれ以上公式で掘り下げが来ることはないでしょうが、これからもきっとシリーズを追いかけつつ私はずっとラファエロとアンジェリコに想いを巡らせていくのだと思います。シリーズ年表の初めの方の作品にデリコとフラのご先祖様が出てくると信じていますし、もしかするとナーサリーで二人の出会いが描かれるかもしれません。これからの展開を楽しみに一ファンであり続けたいと思うのです。

 

 

【参考文献】

末満健一『ソフィ・トリロジー〈TRUMPシリーズ戯曲集Ⅰ TRUMP/LILIUM/SPECTER〉』東京:星海社、2018.

末満健一『デリコ・トリロジー〈TRUMPシリーズ戯曲集Ⅱ グランギニョル/COCOON月の翳り/COCOON星ひとつ〉』東京:星海社、2019.

『聖書 新改訳』新改訳聖書刊行会訳、東京:日本聖書刊行会、1970.

C.B.シンクレア『現代聖書注解スタディ版 創世記』小友聡訳、東京:日本キリスト教団出版局、2011

F.B.クラドック『現代聖書注解 ルカによる福音書』宮本あかり訳、東京:日本キリスト教団出版局、1997

Stephen Shoemaker Godstories: New Narratives from Sacred Texts  Judson Print,1998

*1:2013年版までのreverseではその限りではないが最新の2015年版及び脚本をベースに考えるものとする